東京高等裁判所 昭和44年(う)1853号 判決
被告人 鈴木久
〔抄 録〕
所論は、原判決は被告人が小沢孝夫と共謀の上、片岡文明らに仕返えしをしようと企て、昭和四四年二月二七日午前三時頃日本刀を携えて片岡文明方に赴き、小沢孝夫が片岡を呼び出し、同人方北側路上において、被告人が所携の日本刀で片岡の下腹部を刺すなどして同人に全治約一ケ月の傷害を与えたと判示するけれども、被告人は小沢孝夫と原判示のような共謀をした事実も、また自から日本刀を携え、それで片岡を刺すなどしたこともなく、片岡文明に傷害を加えたのは小沢孝夫の単独犯行であるから、原判決は事実を誤認した違法があり破棄を免かれないと主張する。
よつて、所論に基づき原審記録を精査し、当審における事実取調の結果をも綜合勘案すると、被告人は昭和四四年二月二七日午前〇時三〇分頃、被告人が世話していた佐藤正信が片岡文明、桜井秀夫らに暴行を受け負傷入院したことを知り、自動車を運転し自己の若衆である小沢孝夫方に同人を迎えに行き、同人を伴つて自宅に戻り、その後の事件の詳報を待つていると、小沢孝夫は自宅を出る時、万一片岡らと喧嘩となる場合のことを考え秘に携えてきた日本刀を持つて被告人に無断で被告人方を出て、桜井秀夫方に同人を訪ねて行つたが、同人不在のため、更に片岡文明方に赴き同人方裏庭に廻つて「片岡はいるか」と声をかけたところ、同家にいた井上幸吉朗、片岡文明、桜井秀夫の三名がその声に応じ、右の順序で裏庭を通つて北側道路に出てきたこと、その時同路上で片岡が日本刀によつて何者かに下腹部及び背部を斬られ原判示のような負傷を負つたこと、及び被告人は小沢がいなくなつたので喧嘩になることを恐れ同人を探しに出たところ、途中安藤某から小沢が片岡方へ行つたことを聞知し同人方へ行き、片岡方前路上における本件喧嘩の現場に到着したことを認めることができる。
しかしながら、被告人と小沢孝夫とが予め共謀して喧嘩斗争の目的で片岡文明方に出掛けたことについては、記録を精査してもこれを確認するに足る証拠がない。井上幸吉朗、桜井秀夫の各検察官に対する供述調書中には、被告人が片岡を傷害したと思う旨の供述記載があるが、これらによつても被告人が日本刀を所持していたことは確認できないし、また、同人らは犯行の瞬間を現認したわけではなく、たゞ両名の位置関係などからそのように推認するに過ぎない。ところが、その余の証拠に照らしても、被告人が日本刀を所持し、かつこれを使用したとの点は確認できないのみならず、かえつて、小沢孝夫の検察官に対する供述調書、原審公判廷の証言によると、同人は前記路上で片岡からいきなり刃物様のもので攻撃されようとしたので、所携の日本刀の鞘を払つて夢中で同人に斬りつけたと供述する外、証人井上幸吉朗、同桜井秀夫の原審、並に当審公判廷の各証言、証人片岡文明の当審公判廷の証言を綜合すると、片岡を日本刀で斬つたのは小沢孝夫であることを明認できる。証人片岡文明の原審公判廷の供述中右に反する趣旨の供述は右各証言に照らし信用し難い。
ところで、片岡に直接手を下したのは小沢であつて被告人ではないこと、片岡に対する傷害ないし暴行について被告人と小沢との間に予めの共謀がなかつたことは右認定のとおりであるとしても、なお、本件犯行現場において被告人と小沢との間にいわゆる現場共謀の成立が認められる余地があるので、進んでその有無につき審案すると、井上幸吉朗の検察官に対する供述調書、証人片岡文明、同桜井秀夫の原審並に当審公判廷の各証言、証人井上幸吉朗の当審公判廷の証言によると、被告人はすくなとも本件犯行頃には片岡方北側の犯行現場に到着していたことは肯認できるのであるが、被告人が小沢が日本刀を所持しているのを知つていたとの点についてはこれを確認するに足る証拠がなく、また前記各証拠によると、片岡は小沢から呼び出しを受けコカ・コーラのビンを手にして自宅裏庭を通つて表路上に出たところ、何の問答をする間もなく小沢によつて日本刀で刺されたと認められるので、被告人はたとえ佐藤正信の負傷の件で片岡らを問詰する意図で同人方に赴いたとしても、何ら話合いをする間もなく咄嗟に被告人と小沢との間に日本刀で片岡に斬りつけることの共謀が成立したとは到底首肯し難い。
右のとおり、現場共謀も認めることができないから、結局本件は小沢孝夫の単独犯行というの外なく、これに反する原判決の認定は事実を誤認した違法があり、右はもとより判決の結果に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨は理由があり、原判決はこの点で破棄を免かれない。
(山田 目黒 中久喜)